あなたが一番愛されてる

先日、福井県の越知山にある大谷寺(おおたんじ)のご住職とお会いしてお話を聞かせていただく機会がありました。

 

この大谷寺というのは白山を開山された泰澄大師ゆかりのお寺です。

その時にこんなお話をお聞きしたんです。

 

「私には息子がいて、決して息子がかわいくなかったわけではなかったが、それでも孫ができたとき、こんなにもかわいいと思える命があるものなのかと思った。

孫がこんなにかわいいものであるならば、まだ見ぬひ孫はもっと愛おしく思うに違いない。

 

私やあなたがこの世に生きているということは、そこに必ず親がいる。

父と母なく生まれてきた人は1人もいない。

その父と母にもそれぞれ父と母が必ずいる。

2代さかのぼると4人。3代さかのぼると8人。

たった10代さかのぼっただけで、あなたにつながる命は2046人になる。

20代さかのぼれば200万人を超えてしまう。

中には事情があって親と暮らせない子もいたであろうし、辛い思いをして生きている人もいるだろう。

けれども、あなたにつながる命のつながりの中で、今のあなたが最も愛されているというのは紛れもない事実なんだよ。

あなたが苦しんだり悩んだり頑張ったりしている今を、『あぁ、愛しや』と思いつづけてくださっている命のつながりが誰にもある。

数え切れない命のつながりの中で、最も愛しく愛されているのが今の私たちなのだねぇ。

 

今は目に見えるものしか信じないという風潮が強いのかもしれないけれども、目に見えない力というのは、そんなあなたにつながる、あなたを愛しいとおもってやまない命のつながりのことを言うのではないかな。」

 

 

私の記憶で書いているので正確ではないかもしれませんが、そんなお話でした。

 

これは「だからご先祖に感謝しなさいよ」という単純な話では決してないと思うんです。

 

私たちはそれだけ愛されるに値する存在だからこそ、今ここに生きているということ。

親の願いって、子どもに立派な人になって欲しいとかお金持ちになって欲しいとかそんなことじゃないですよね。

感謝されるのは嬉しいけれど、それよりももっと嬉しいのは、子どもが自分らしく生き生きと命を輝かせて生きることだと思うんです。

 

自分たちの命の先頭で生きている子どもが、自分を否定しながら生きていたらこんなに悲しいことはないでしょう?

だって愛の結晶なのだから。

 

 

白山の神様はイザナミなのですよね。(一般にはククリヒメとされますし、もちろんククリヒメも大切なお役目でいらっしゃるのですが、今はイザナミとしてお話しますね)

イザナミは黄泉の国の女神なので、醜くておどろおどろしい神だと思われるかもしれませんが、私が日本の神々の中で最も大好きなのがイザナミなんです。

 

この地球を生み出し、全ての命が生まれる大元となった一番最初のお母さん。

それがイザナミだと私は思っています。

10代さかのぼれば2046人。ほんの江戸時代ほどの話です。

30代さかぼのれば20億人になるそうです。

イザナミは、その数えつくせないほど多くの命のお母さん。正真正銘のビッグマザー。

 

私たちは誰もが死んでいきます。それは悲しくて寂しいものですけれども、もし人生に死というゴールがなければ、どんなに苦しいことでしょうか。

どんなに楽しいゲームでもゴールがなくて走り続けるだけなら拷問でしかありません。

まして人は失敗もするし、人を傷つけることもある。取り返しのつかない過ちを犯すこともあるでしょう。

でも、どんなにひどい生き方をしても、誰かを傷つけても、イザナミは「おかえり」と迎えてくれるんですよね。

あんたみたいな子どもは帰ってこなくていい!!と拒絶することはないんです。

全てを受け入れて許し迎え入れてくれる。

 

途方もない広くて深い愛がそこにあると私には思えてならないんです。

 

イザナミがこの愛に至るまでのストーリーも機会があったら書いて見たいなぁと思うのですが、それはさておき・・・

 

私が来月の白山ツアーで

 

いのちの源、大地のビッグマザーの懐に抱かれながら

本当の自分に還って全力で世界を感じ、

大人も子どももど真ん中の自分と妥協なしで遊び尽くしましょう!

 

 

というテーマにしたのは、それが命のおかあさんへの最も『親孝行』だと思ったから。

それこそがまつりなんじゃないかなって。

私も、あなたも、一番愛されている存在で、みんなつながっている。

自分につながるたくさんのたくさんの命と一緒に、今この一瞬を喜んで生きる。

 

それが開山1300年を迎える白山のまつりに一番ふさわしいと思ったからなんです。

 

泰澄が伝えたかったのは、そんな途方もなく大きな愛の中で私たちは生きているんだよということだったんじゃないかなって、大谷寺で手を合わせながらそんな風に思った私です。