大鳥神社

第57代陽成天皇の元慶六年(882年)に、伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽(現在の三重県伊賀市馬場)から大原中へ勧請され、その後現在地に移し祀られた。

当時は比叡山延暦寺の別坊が36院あったといわれ大原山河合寺と称されたが、安土桃山時代には牛頭大名神河合社牛頭天王と言われ、今も氏子からは「てんのうさん」と呼ばれている。

 

 

伊賀から甲賀と言うと「え?」と思うかもしれませんが、この土山は山を一つ越えればそこは伊賀なのでおかしいことではありません。

なんらかの理由で伊賀から甲賀へ移り住んだ一族が、元の地の神様を勧請してお祀りしたということだと思います。

では元宮にあたる伊賀のお社はどこかと言うと、伊賀市にある陽夫多(やぶた)神社になります。

 

陽夫多神社は平安時代より以前より続く古いお社ですが、祭神の陽夫多神(藪田神)がなんであるのかは実はわかっていません。

現在の主祭神はもちろんスサノオとなっていますが、「当陽夫多神社記」によると

 

『阿拝郡川合山に神有り 藪田明神と号す

武小広国押盾天皇 御宇戌午 国造多賀連之を祭る也

祭り奉る所はスサノオ也』

 

とあるそうです。(wikipediaより)

 

多賀連(たがのむらじ)とは、近江国多賀(現在の滋賀県犬上郡多賀町)でイザナギを祖神としている天孫族(日本神話で天から降り立ったとされるニニギノミコトの子孫)とされます。

多賀大社の社家(神社の神職を代々世襲してきた家)でもあります。

 

となると、ここ甲賀の大鳥神社の大元のルーツは、伊賀の陽夫多と同じく犬上郡の多賀氏にあたるのですね。

 

 

ところが陽夫多神社は「河合天王」と称されると同時に「高松神」とも呼ばれました。

詳しくは省略しますが(wikipediaの「陽夫多神社」の説明を参照してください)、貞観三年(861年)~十五年(876年)の間に陽夫多神を信仰する氏族と高松神を信仰する氏族の争いがあり、陽夫多神を信仰する氏族が失脚したことが考えられるとのこと。

 

ここ大鳥神社は882年に伊賀から勧請されているということなので、その争いで失脚した氏族が山を越えて甲賀の土山へ移り住んだということになるでしょうか。

 

氏子さんたちからとても大切にされている場所なのだな・・・というのが伝わってくる美しいお社でした。

 

(滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野782)